最近のメッセージから

 

  「神様は来られている」       4-5-20   Palm Sunday

  これから、イエスの最後の1週間になります。Palm Sundayです。木曜日は弟子たちと最後の晩餐をされます。金曜日はイエスが十字架につけられる日であり、日曜日は復活されるイースターです。:

  これからイエスキリストが、十字架にかかる前に、エルサレムに入ったことを記念する日です。

 イエスはロバの子に乗ってエルサレムへ入ります。人々は命の木の象徴であるナツメヤシの枝を敷いて、そして葉を振って、イエス様の入場を祝います。これからはイエス様を王様として生き生きと存分に命を楽しめる。でもイエス様はエルサレムを見て泣かれました。そしてエルサレムにはいた後、宮にいた商売人立ちを追い出しました。

 

エルサレムの入城というのは、ただ喜ばしいというだけのことではないのです。

 

エルサレムに入城について改めて考えてみましょう。

 

  1、弟子たちの讃美の言葉 

 

1937で弟子たちはオリーブ山を下っていく時、と書かれています。

 

まず地形を確認しましょう。オリーブ山からきドロンの谷に下りて、そしてまたエルサエムに上っていくのです。

 私たちは上る時はハアハアと息を吐きながら登ります。でも降る時は力が入ったように思いますね。

 弟子たちもそうだったのでしょう。

自分たちの力が発揮できる、そんな期待を持っていたことがわかります。

事実、1938節の讃美ですが、ルカの2章、イエスが生まれた時、天使たちが歌った賛歌を少し変えています。ルカの2章の天使の讃美は、天には栄光、地には平和となっていましたが、(これはクリスマスの時に言われる言葉です。

 

でも、ここでは、天には平和となっています。

   この弟子たちは何を期待していたのでしょう。

 地には平和がないことを暗示しているのでしょか 恐らくそうでしょう。

 これから革命を起こす。そんな血気盛んな弟子たちだったのではないでしょうか。悲しいことです。

   

彼らは平和どころではないのです。この時のエルサレムは、イエスというカリスマのリーダーを掲げて、大きな社会運動が始まるという予感にあふれていたのです。だから、そこには当然平和という言葉は必要ではなかったのです。

 人間は平和を求める動物ではないのかもしれません。

 

   ここで、使途パウロの言葉に耳を傾けましょう。

 

キリストが私たちの平和だと言っているのです。

 エペソ2:14  実に、キリストこそ私たちの平和です。

   イエス様は地上に平和をもたらす方なのに、

 

しかもその方法は十字架でした。イエス様は事前に何回もそのことを示すことを語られていましたが、その後1週間もたたないうちに、そのイエス様が十字架にかけられることを予想していた人はほとんどいなかったのではないかと思います。

 

私たちの思いは、えてして、神様の思いと全く異なるのです。

 

 自分の思いが、イエス様の考えを隠してしまうのです。

私たちの思いがイエス様の思いを隠すという経験をしたとはありませんか。

このことに気を付けたいと思います。

  

エルサレムに王が来る というのは、私たちにとってどんな意味があるのか

 

旧約聖書カリヤ書の9:9に、 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。

 

  という予言があります。

 

今まで私たちは、荒野を歩んでいるという事を見てきました。荒野の歩みは目標があったのです。

 荒野をさまよっていたイスラエルの民は、神が示される約束の地を目指していました。

 神様はアブラハムに自分が示す土地へ行けと命じられました。そこに行けば私はあなたを祝福すると約束されたのです。

 それはカナンと呼ばれていました。

 カナンというのは、現在のイスラエルのあたりの土地です。そしてその中心はエルサレムなのです。

 だから、人々が目指すべき約束の地はエルサレムだったのです。

 人々は約束の土地に到着したのです。そしてあとは何があればよいでしょう。

人々を治める王が来れば完成です。

 約束の地に人々が入って、そして王が到着する。

 神様が考えられた通りに、約束の地に王が来られるわけです。

 ジグソーパズルの最後のピース、それが王様の訪れなのです。

 

  

2、イエスは泣いた

 

19:42 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。

 

イエスはなぜ泣かれたのでしょうか

 悲しみを押さえることができなかったからです。

 19:42  平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら

 と言います。

 エルサレムというのは、平和の町という意味でした。その平和の町が平和への道を知らない

 エルサエムは平和に向かう道を知らないことを知っていたからです。

 ルカ1333-34で、イエス様はエルサレムについて次のように言っています。

 

 ルカ13:33 しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。』

 

13:34 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。

 

13:35 見よ、おまえたちの家は見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。おまえたちが『祝福あれ、主の御名によっ

 

めんどりがひなを翼の下に集めるなら、ひなは守られます。平和があるのです。でもそういう事を嫌う雛もいるのです。そういう雛は親の翼の下から出て、自分の道を行きます。そしてそこには平和はないのです。そこに待っているのは、敵であり、その結果、破滅が待っているのです。

   

神が訪れてもそれを拒むなら、捨てられる。

 エルサレムの人々が神を、神によって遣わされた人を拒んできたことを言っているのです。

 神が約束された土地に住む人々なのに、人ひとは、神を拒むのです。ピースは完成しないのです。

  イエスは続けられます。

 43-44

 「敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、

 

19:44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。

 

 一つは、エルサレムの未来が、見えたからです。

 エルサレムは紀元70年にローマ帝国によって壊滅的な打撃を受けるのです。

 

ローマ帝国の直轄領であったイスラエルで、ユダヤ総督によって、神殿の宝物が盗まれたことに端を発している。ユダヤ人はそれに反発して反ローマの機運が高まって、暴動化したため、それを制圧すべくローマ帝国はエルサレムの鎮圧を企て、結果としてエルサレムを木っ端みじんにすることになったのである。

 

  でも、この破壊はただエルサレムの街の破壊だけにとどまりません。イエスは44節後半で、さらに続けます。

 「それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」

 平和への道を知らなかったのは、神の訪れを知らなかったからだと言われているのです。

 

  

神の訪れを知らないということ

 

平和がないのは、神の訪れを知らないからだ。これは当時のエルサレムの人だけに限ったことではありません。私たちは神様の訪れを受けているのです。でも多くの人はそれに気づかないのです。

 

神様は独り子イエス・キリストによって私たちを訪れ、働きかけ、語りかけ、私たちと正面から向き合う交わりを結ぼうとしておられるのです。

 

今の時代も、多くの人々は、神様の訪れを知らないのです。

 

それを想って、イエスは泣いたのではないでしょうか。

 

神様が今も私たちの間に来てくださっているなんて、と思う方は多いと思います。ましてこんな状況で神様は働かれているのか、と疑問に思う方も多いと思います。

 

でもだから、神様なんてと断定することで私たちの思考は遮られてしまいます。仮に、神様が私たちの内に来てくださっていると仮定してみてください。そして働かれていると想定してみてください。何がいけないのでしょう。

   

ヒューストンはここしばらく雨が降っていませんでした。

 わたしの家の芝生も、緑が茶色になりつつありました。

 自然に任せていてはいけないのです。

 水をまかないといけないのです。

  

 私たちの心も、もし茶色にすすけているとしたら、不安の中で潤いを忘れているとしたら、ちゃんと水をあたえていないからかもしれません。

 

神様は、神様を信じる者には、命の水を与えるとおっしゃってくださいました。聖霊がその水を与えてくださるんです。問題は私たちの願いと聖霊様の間にあります。

 

意図的に、シバに水を与えないとシバは茶色になっていきます。それと同じように、私たちも意図的に

 

聖霊にそれを伝えないといけないのではないでしょうか。

 

  

3、イエスは宮清めをする 1945-46

 1945イエスは神殿に入って、その中で商売をしていた人を追い出して言います。

 1946。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」

  

イエスはここで激しく怒ったのです。

 イエスは先ほどはエルサレムを見て、泣きました。そして今宮を見て怒ったのです。

 とても感情的なイエス様を私たちはここに見ます。

 いつも冷静だったイエス様も、人間なのです。

 

 

祈りの本質は、神の訪れをしり、神を迎えること

 

私たちは神の訪れを知り、その神を迎え、そして神を受けいれることが求められていることを見ました。それは具体的には祈りとして実現されます。

   

神の宮というのは、私たちの体です。私たちの体は、祈りが住むところでなくてはならないのです。

   

神は私たちの内に来てくださっていると頭で知っていたとしても、祈りがなければ、それは頭の知識だけで終わってしまいます。

 

神を信じていると思っていても、祈りがなければ、それは自分の思い込みで終わってしまいます。

 祈りの中でこそ、私たちは神との交流が実現するのです。

  

 教会は、この祈りの家です。

 

新コロナウイルスで、私たちは今まで集まっていた建物には集まれません。でもだからこそ、教会の真の意味が生きてくるのです。神様によって集められたもののつながりです。それは目に見えません。でもそれはまさに神様が目に見えないのと同じです.こうして時を同じにして、私たちは、目に見えない仲間とともに、目に見えないけど真実である神様の礼拝ができるのです。聖徒の交わりを信じます。という使途信条の中の言葉がありますが、今の私たちのこの交わりのことも言っているのです。

 

その礼拝において私たちは、神の訪れをわきまえ 神様からの語りかけを聞き、その働きかけに応え、神様との交わりに生きていくのです。

 

私たちの日々の生活、日常の歩みの全てが、神様を中心に、神様と共に生きるという軸を持て、進められていくのです。

    もし、私たちの生活が、神様の訪れをわきまえるものとなっていないならば、主イエスはそのことを悲しまれます。また私たちが主イエスの語りかけをわきまえず、それに応答する祈りに生きていないならば、主イエスは怒られるので。

 

  それは私たちが本当の意味での「平和への道」を知らないということです。

 

もし神様の訪れを知らないままなら、私たちが生まれつき持っている欲望、願望がどんどん成長していきます。そしてそれらの欲望がほかの人の欲望とぶつかって争いが生じます。そして私たちの内でも様々な自分の思いがぶつかって、心に波風の止む時がなくなるのです。

 

本当の平和への道は、私たちの思い、願い、欲望が、神様の訪れによって打ち砕かれ、純化されていく道なのです。 

   

4.それでもイエス様は来てくださる

 

イエス様は、そんなエルサレムでも、十字架への道をやめることなく最後まで歩みをされました。涙を流し情けなさに悲しみ、自分たちのことしか考えない宮の商売人たちに腹を立て、大声を上げつつも、十字架の歩み、全うされたのです。

 

そんな私たちを救うために、、、自らの命を捧げられたのです。

  

ピリピ人への手紙、2:6 -8

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

 2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

 2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 

  このおかげで、私たちは命を与えられるのです。

 天国への切符を渡されるのです。

 

  今もイエス様の救いの手が伸ばされています。イエス様の救いを受けていない方は、今がそのチャンスです。私はあなたから離れていました。でも今あなたが今も私を見つめ続けていてくださることを知りました。あなたのもとに帰ります。癒してください。導いてください。

   今も神の訪れをわきまえ、イエス様の愛に答えて行きましょう。祈りの家としての生活をいと何で参りましょう。神様の御心を知って、神様の愛を実践していきましょう。

 

 ホレブはどこにある      出エジプト記 171-7     3-29-20

 

1.     

 

 

 

荒野を旅しているイスラエルの民は、レフィデムという場所に来ます。

そこで、また水が不足します。民は、また不平を漏らします。

 

私たちも同じだと思います。ある時、神様から祝福を受けて、ああよかった。神様ありがとうと思ったのもつかの間、また水がないとなると、一気に不安になるのです。

 

信仰の薄いものなのです。

 

 

 

1、私たちから出てくること 

 

モーセは民の問題を2つにまとめます。なぜ私と争うのか、なぜ主を試みるのか。この2つが重要です。7節に改めて書かれています。

1)争うということ

 

 

そうです。水を与えよというのは、ただのお願いではありません。

 

イスラエルの民が、怒り狂っていることは、モーセが自分を石で打ち殺そうとしていると訴えているところからわかります。これは収拾できない混乱状態です。

 

争い、人々は苦境に陥ったとき、争いに走ります。

 

とにかく、自分のトイレットペーパーを取らないとと争うのです。

 

 

 

2)主を試みること

 

私たちの内に神はいてくださるのか。神は遠く離れているだけなのではないか。自分たちの窮状を知っておられるのか。もしいるなら水を出してみよ。そういう事です。

 

この石をパンに変えてみよと、悪魔がイエスを試みたように、イスラエルの民は、神を試みているのです。

 

私たちは、どうでしょう。困ったときに、水がない水を与えよと神様に言ったりすることはあります。これは神を試みることなのでしょうか。素直に困っていることを告白してはいけないのでしょうか。

 

 

神が私たちとともにいることを疑うかどうかがカギになります。

 

内におられる神様に困っていることを伝える。それはいい。

 

でも神様、本当にともにいてくださるんだったら、証拠を示してください。

 

疑いをもつかどうか、信じられないから証拠を示せ。この違いです、

 

モーセは神にふたたび叫びます

 

そんなモーセに、神は、ナイル川を打った杖をもって、ホレブの山に行けというのです。そこで神様が立ってくださり、その岩を打てば水が出るというのです。

 

 

2、神様のしてくださること

 

1) 神の杖

 

神はモーセに神の杖をもって、民の前を通るように指示されます。

 

神の杖、これは紅海を開いたときに使われもので、神の力を象徴しています。

 

神の力を民の前に示すのです。

 

困ったときには、神の力を思い出すことです。

 

神の過去の奇跡を思い出すことです。

 

モーセは神の杖を使って、水を出すことができました。

 

 

 

私たちにも神の杖が与えられています。神の力を象徴するものです。聖書であり、祈りであり、仲間との交わりです。神の杖をいつも持っていましょう。神の力が出てくるきっかけになるものをいつも持っていてください。決して手放さないでください。そこから神の力は発揮されるのです。

 

 

 

2)ホレブの岩

 

モーセはイスラエルの長老らを連れて、レフィデムに人々を残し、ホレブまで行ったのだ。そして言われたとおりに、そこの岩を打つと、水が出てきました。そしてそこで水が出て、川が流れ出たのです。人々はその水を飲みました。

 

 

 

ホレブの岩というのは、何を意味するのでしょう。

 

神が人と会う場所

 

ホレブは、実はモーセが最初に神と出会った場所でした。

 

出エジプト記3:1

 

モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。

 

 

  ここで、燃える芝の体験とともに、モーセは神と出会ったのです。

 

神と会うという事が大切なのです。

 

人々は、神があってくれることを信じません。

 

だからこそ、神を知っているものが神に会い続けることが大切なのです。

 

 

 

神が人々と契約をする場所 シナイ山

 

さらにこのホレブという場所は、シナイ山を含む山塊のことだということがわかります。

 

申命記52で モーセは神と民が結んだ契約、十戒についてこう言いました。

 

私たちの神、【主】はホレブで私たちと契約を結ばれた。

 

出エジプト記19章で、イスラエルの民は、レフィデムを出てシナイの荒野に入ってモーセがシナイ山に上っていくという状況になります。そこで神は人々と契約をされたのです。

 

神が人々と契約をしてくださるのがホレブです。私の言葉を守るなら、あなたを守る、、、

 

 

 

私たちにとってのホレブ

 

          先ほどの出エジプト3:1でミディアンの祭司の羊を飼っていたモーセはホレブにやってきたと書かれています。

 

ホレブというのはどこにあるのか 地図を見てみましょう。

 

こんな遠くまで、紅海を渡って、あるいは大きくう迂回してモーセは移動したのでしょうか。ホレブはシナイ半島の南にあるというのが定説です。

 

 

ホレブはどこにあるのでしょうか。

私たちにとってのホレブを考えてみましょう。

 

ホレブというヘブライ語の意味は、かがやきとか、熱、太陽という意味にもなりました。神の臨在がみられるところには、シャカイナグローリーがあるといわれます、神の栄光です。まさに神がおられることを示してくれる場所です。

 

アメリカには、Mt Sinai hospitalがたくさんありますが、この名前はここから取られています。この病院では神様と会える、癒し主である神様と会える、そんな願いを込めてつけられたのではないでしょうか。

 

神様と会える場所が、シナイ山であり、ホレブなのです。

 

 

 

神は私たちの内におられる

 

イエスキリストを信じる者には聖霊が与えられます。聖霊様を受け取った人たちには朗報があります。神は私たちの内におられるからです。この真理をまず思い出してください。私たちの内で、神はあってくださるのです。でも私たちは肉体を持っています。ですから物体にとらわれてしまうのです。ですから、私たちも神と会える場所を覚えておくことが必要です。皆さんの神と会う場所はどこですか。寝室、教会の部屋、祈りの部屋。それを意識しましょう。神は必ず恵みを与えてくださいます。

 

 

 

岩を打つ

 

モーセは岩を打ちました。紅海の時は、海を打って、海が割れました。今回は岩を打って、水が出てきたのです。

 

 

 

 岩の下に水脈があったということかもしれませんが、これは単なる奇跡ではありません。岩である主を打つという事です。

 

パウロは、イスラエルの民がレフィデムで経験したことを次のように説明しています。

 

Ⅰコリント10:1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。

 

10:2 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、

 

10:3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、

 

10:4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

 

 

 

私たちの主、神は私たちがよって立つ岩です。イエスキリストは私たちをゆるぎなく立たせてくれる岩盤なのです。そのイエスキリストを打つという事です。人に打たれることによって、主は、人々の渇きを満たしてくださるという事なのです。ここにイエスの痛みを感じてください。

 

 

 

主を自分の思い通りにしようという民の意図。それは神を試みること、神を試すことになります。それは神のことをよく知れば恐れ多い事、そんな民は裁かれても仕方がないのです。私たちは神を試みる誘惑をいつも受けています。

 

困難なとき、神を試みる誘惑を受けているのです。

 

 

 

でも神は、そんな民のそんな勝手な要求に対し、自らを打たせ、その結果水を与えるという方法を取られたのです。

 

すでにここにイエスキリストの十字架がしめされているではありませんか。

 

ホレブの岩である主は自らの体をもって私たちを守り養ってくださるのです。

 

ヨハネ10:11

 

わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

 

 

 

みこころにかなっているか

 

神は憐み深い方ですから、身を削ってでも私たちの必要を満たしてくださいます。しかし

 

いくら教えてもみこころにかなわないものはそれなりの対価を支払わなければならないのです。第一コリントの先ほどの個所の先でパウロは言います。

 

        105 しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

 

そしていうのです。

 

        10:6 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

 

 

 

イスラエルの多くの民は、悪をむさぼったから滅ぼされたと。

 

私たちはそういうことをしないように。

 

不安な時に、どう対応するか。不安な時に悪が出てきやすいのです。

 

争うな。キリストを試みるな

 

神様を信じ続けることです。

 

 

 

神は脱出の道を備えて下さる

 

そして、パウロはさらに続けて言うのです。

 

10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

 

 

 

 

 

魂をリストアすること

 

Stay home Work safeとい指示が出て、家にいる時間が長くなります。通勤時間は無くなります。夫婦も家族も一緒にいる時間が長くなって、どうしようという人も出てきます。生活の構造が変わってしまいました。この新しいニューノーマルにどう対応していくか。

 

 

 

神様は何をお考えになって、このようなこと赦されているのであろうか。一体いつになったら、感染者は減少していくのか。

 

私たちは、悪魔が私たちを不安に陥れ、苦くさせようとしていることも知っています。

 

 

 

これは一時的なものではないような気がします。

 

神様は、確かに悪魔の策略を赦していらっしゃいます。私たちは前代未聞のストレスを受けています。心がやんでしまう可能性を抱えています。でも神様はどんな過酷な状況においてもご計画をお持ちです。そして脱出の道を備えてくださいます。

 

 

 

これは私たちの生き方を見直して、今前の過ちから脱出するきっかけなのかもしれません。家にいる、家族と過ごす時間が長くなる、娯楽も減る、外食も減る、このような状況の中で、私たちの生き方をもう一度思い返す、、、

 

 

 

詩編23の中に、こんな箇所を思い出します。

 

 

 

23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに私を義の道に導かれます。

 

わたしの魂を生き返らせ、

 

 

 

生き返らせという言葉は英語でリストア、元に戻す。死にかけていた魂をもとの生き生きとした状態に戻す。

 

体を守ることも大切ですが、この状況の中で、魂を生き返らせるという事を意識することが求められているのではないでしょうか。

 

神様は、悪魔のこの攻撃を許す中で、私たちをリストアさせようとしているのではないか。

 

 

 

マタイの個所も思い出してみましょう。

 

マタイ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

 

魂のリストア、回復。

 

  

 

メンデルスゾーンという作曲家を知ってますか。

 

彼がある時ヨーロッパのある小さな教会を訪れました。その教会では新しいオルガンをちょうど購入したところでした。そのオルガンの管理を任された男は、メンデルスゾーンが入ってきたとき、誰が来たのか知りませんでした。

 

メンデルスゾーンはその男に言いました。

 

 

 

すみません、このオルガン引かせていただいてもよろしいでしょうか。

 

男は言いました。「あ、いや、それはお断りします。これはつい先日購入した新品で誰でも引かせるわけにはまいりません。

 

そこを何とか、メンデルスゾーンはいいました。

 

いえ、ご理解いただいていないようですなあ。これは何百万も出して買ったものなんです。弾いていただくわけにはまいりません。

 

何とか少しでも弾かせていただけないでしょうか。

 

しつこいですね。わかりました、1分だけですよ。

 

メンデルスゾーんはそのオルガンを弾き始めました。

 

その男が聞いたこともないような甘いメロディが教会にこだましました。

 

こんなに美しい音楽を聴いたこともありませんでした。

 

弾き終わったとき男は聞きました。

 

失礼ですがお名前をうかがっても、、、

 

メンデルすぞスゾーンは自己紹介しました。

 

その男はメンデルスゾーンの名前は聞いて、唖然としました。

 

誰が彼の前に立っているのかを知って慄然としました。

 

そしてメンデルスゾーンに弾いてもらうのを拒んだ自分を恥ずかしくなりました。

 

この教会に誰がいるのか知らなかったのです。

 

 

私たちも神様の臨在の力を認めないことを、そして神様にその力を発揮していただいていないことを恥恥じるべきではないでしょうか。

教会は神の宮であり、私たちの体です。

 

神は私たちの内におられるのです。神のホレブ、かがやきは私たちの内にあるのです。

 

今かがやきを忘れずに、

 

この困難の中にあっても、私たちの内にいらっしゃる神様から決して目を離さないでください。神様が私たちを守ってくださり、導いてくださります。人と争わず、主を試みず、この機会を自分たちの生活を神様の御心によりかなう形に変える機会ととらえ、神様の平安を守って、この荒野を乗り越えてまいりましょう。

 

 

命があれば甘くなれる。  3-22-20

 

集まることによって新型コロナウイルスはそこで大きく広がる。だから、集まってはいけない。感染が劇的に増えるのを押さえるのはこれしかない。

 

外出を控えなさい。レストランもテイクアウトだけというような指示もだされるようになりました。買い物に行くと、トイレットペーパーはまだない、いろいろな食べ物の棚も空っぽ、

 

そして家に帰れば、コロナウイルスのニュースばかりで、今日は何人の方が亡くなったとか、気が滅入るばかり。

 

 

 

孤立化しています。

 

教会で皆が集まれなくても祈りをしっかりして、聖書を読んで養われればいいと思っても、

 

集まらないと、やはり意欲が薄れていきます。不安は広がっていきます。何より心に落ち着きが亡くなり、疲労感が高まります。ちょっとのどが痛くなると、危ないのではないかと思ったりします。

 

 

 

でも、神様は孤立するなと教えられています。

 

だから、ヘブライ人への手紙1023-25で書かれています。

 

10:23 約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。

 

10:24 また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

 

10:25 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

 

 

 

集まるのをやめないで、神様の礼拝を続けなさいと言われています。

 

なぜか。それは私たちは一つの体だからです。そしてその体は

 

神様を礼拝することによって命が維持され、新しくされるからです。

 

私たちは一つの体ですから、それぞれが意思疎通をしないと、バラバラになってしまいます。

 

そしてせっかくイエスキリストをかしらとするこの永遠の体をうけもっているのに、生き生きとした血をいただけなくなってしまいます。

 

 

 

心を不安で満たし、そして私たちの魂をキリストから離そうとしているのです。

 

でも命を与えてくださる神様を忘れてはいけません。いかに教会が貴重なものであるか。

 

いかに礼拝が大切であるかを覚えたいと思います。

 

 

1、 命の木が与えられる。

 

それでは、本日の聖書個所を見ていきましょう。イスラエルの民は、エジプトでの奴隷状態から解放されて、エジプト軍の追撃も、海の中に道ができる、そして道が閉じるという奇跡的な出来事を通じて、助けられました。そのあと3日間水がない状態で歩き続けたのです。

 

「何を飲んだらいいのか」と、不平が聞こえてきます。人々は不安からくる声をモーセにぶつけたのです。

 

私たちも今、どうしたらいいのか、という不安に押しつぶされそうです

 

神様はそんな彼らに一本の木を示されます。

 

 

 

 

 

神は憐みに富んだお方です。木を指し示されたのです。

 

木は創世記の中で、命の木などとして出てくることを思い出してください。そう、あんたは園にあるどの木から食べてもいい、、、というあれです。

 

命が与えられる木なのです。

 

 

 

「示された」ということばはヘブル語で、ヤーラー

 

投げるという意味もあります。そのほかに、この言葉は教えるという意味もあります。この言葉からトーラー(律法)という言葉が出てくるのです。

 

 

 

つまりここから推測されるのは、命の木が投げ込まれた、あるいは命の木を教えられたというです。

 

モーセが、何のことだか分らんと思いつつも、言われたとおりにすると、苦くて苦くて飲めなかった水が、甘くなったのです。おいしい水になったのです。

 

みなさん、苦い水の味、そしておいしい水の味を思い浮かべてみてください。

 

 

 

そして水というものが何を意味するかを考えてみましょう。

 

命に関する神の教えが苦い水に入ると、その水が甘くなる。

 

苦い水というのは、そう、私たちです。

 

苦みに満ちてしまいがちな私たちも命の木が入ってくると、甘くなるのです。

 

神の教えを受け取って生きるなら、甘く変えられるのです。

 

 

 

まだまだ私たちの水は苦いかもしれません。でもどんどん神様の木を投げ入れていただきましょう。神様の命を、教えを受け取って参りましょう。

 

苦い私たちの水が少しづつ甘くなっていくはずです。

 

濁っている私たちの水が少しづつ透明になっていくはずです

 

 

 

2、 甘くなった水に神様は言われたのです。

 

主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、そして言われた

 

 

 

甘く変えられた私たちに掟と戒めが与えられる、教えられるのです。苦いままの私達であれば、掟を聞いても、そんなもの、聞いてられるかと突っぱねてしまうでしょう。私たちの心が甘く変えられて、愛情を持てるようになって初めて、掟が生きてくるのです。

 

愛されて初めて、私たちは従順になれるのではないでしょうか。神様に受けkれられていることがわかって、私たちの心は平安になり、示されたことを喜んで行っていく事ができるよう野ではないでしょうか。

 

 

 

3、    神様が次に言われたことは。教えに従うなら、心配はいらない。神は癒すものだ。

 

「もし、あなたの神、【主】の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたを癒やす者だからである。」

 

この言葉はイスラエルの民に言われた言葉です。しかし神の民に言われた言葉として受け取ることができます。

 

神様の声を確かに聴いて、従い、主の目にかなう事を行うなら、病気は下されないというのです。

 

なんと確かな言葉でしょうか。

 

私たちが、神様を愛し、その愛の中で神様に寄り添っていくなら、病は下されないというのです。

 

そうです。神様は何より、癒す方なのです。

 

イエス様のミニストリーのことを先週話しました。イエスのミニストリーは基本的に、癒しのミニストリーだったのです。

 

決して、裁きではなかったのです。

 

 

 

イエス様の与える水

 

実際イエスは水を与えてくださると言われました。

 

 

 

しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」ヨハネの414

 

 

 

これは私たちの心の奥底に住んでくださる御霊のことだと書かれています。

 

神様が私たちの内に住んでくださって、常に私たちを潤し、満たしてくださるのです。

 

 

 

私たちは何を飲んだらよいのか

 

クリスチャンの中にも、不安な時、ストレスの大きい時たくさん食べてしまう人は多いと思います。ドーナッツとかキャンディーはおいしいのですが、栄養がありません。

 

イエス様の下さる命をいただきましょう。大きく口を開けて、神様のみことばをいただきましょう。私たちは、きよめられ、変えられ、満たされるのです。

 

荒野において、イエス様の言葉をいただいていく中で、私たちの苦い水たまりは少しづつきよめられていくのです。

 

神様はそういう目的で私たちを荒野に導いておられるのです。

 

 

 

 

 

4、 旅をつづけたイスラエルの民は、エリムという場所につきました。なんとそこには12の水の泉と70本のなつめやしの木があったのです。オアシスです。

 

イスラエルの民はいかに喜んだことでしょう。

 

12部族に合せて12の泉です。

 

私たちに合せて、神は備えてくださるのです。

 

そして70本のナツメヤシの木。

 

70は完全数7をさらに十倍にした数。完全に完全な量が与えられという事です。

 

そして極め付きはナツメヤシの木です。ナツメヤシは昔棕櫚といわれていました。

 

でも棕櫚とは違うんです。英語でいうとdates,

 

Dates palmという木で、中東で何千年も育てられている木です。

 

高さ15メートルを超えるのですが、たくさん実がなります。そしてビタミン、ミネラル、繊維質があって、乾燥フルーツの中でもantioxidantが最も多い果物の一つで、糖尿病、病気にかかりにくくしてくれます。老化防止、骨の密度を保つ、頭脳を明晰にする、血圧を保つ、これは今も健康にとてもいいとして今でも売られています。

 

このフルーツ。健康にいい、命にいいのです。だからか、この木は命の木として知られている木なんです。

 

そして甘いんです。でも血糖値をスパイクさせないのです。

 

 

 

4/5/20 教会の暦の中にPalm Sundayというのがありますが、この日、ナツメヤシの木の枝を振って祝います。これも命の木という事からきているのです。命を与える神様が来られることを祝うから、ナツメヤシ振ったりするのです。死に打ち勝つ命です!

 

しかも甘い命!このナツメヤシの木は、最終的なすべてが満たされる天国の象徴です。

 

 

 

神様はイスラエルの民に、教訓としてこのような旅をさせたのです。

 

不足の続く道のりを3日歩く。人々の心がだんだん荒々しく苦々しくなってく。不安になっていく。そんなとき、神に叫ぶことによって、命の木が示され、そして命が教われら、人々は甘くされる。

 

そして最終的には、完璧な命の木が豊かにあふれる楽園にたどり着くのだと。

 

 

 

神様はご計画を持っていらっしゃいます、そして必要なものを備えてくださいます。

 

神様を信じ、神様とのつながりをさらに強めて毎日を過ごしましょう。

 

この機会は、私たちの神様とのつながりを改めて見直して、強固なものにしていく試練の時です。

 

神様を疑ったり、誰かに不平を述べたりするのではなく、神様の導きを求めてまいりましょう。

 

 

 

最初のヘブライの言葉に戻りましょう。

 

10:23 約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。

 

10:24 また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

 

10:25 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

 

 

 

·         今は私たちの生活、態度を見直すチャンスです。

 

·         神様がイスラエルの民にされてきたことを思い出し、私たちの生活を見直しましょう。そして私たちにできる事に励みましょう。

 

  • 頻繁に周りの人に連絡を取ってチェックする
  • 不安などで落ち込む人に希望の言葉をかけましょう。
  • 買い物にいったときに、そこで働く人に、大丈夫か、祈りますよと声をかけましょう。
  • 子供たちのケア

 

 

苦みについて            3-15-20       出エジプト記  152225A

 

まず詩編36を読んでみましょう。

 

この詩編は、悪の誘惑が自分の心の中にまで入ってくるが、神の義をしっかりと握りしめ、神によって与えられる命を持ち続けていこうという詩編です。

 

 

米国は、トランプ大統領によって緊急事態が宣言されました。スポーツや音楽のイベント、人が集まる教会やイベントの自粛が要請されています。グローサリーストアでは、人々がものを買い占め、商品の並んでない棚が目立つようになっています。

 

このような、不安な状況の中で、私たち、聖書の神を信じる私たちはどう対応すべきなのでしょう。

 

 

わからないことがたくさんあり、私たちは混乱しがちです。確実なことは私たちが今荒野を歩んでいるということです。荒野には、町での生活で与えられる必需品がありません。町で与えられる娯楽もありません。

 

 

 

荒野ですべきことを、私たちの主に尋ねてみましょう。

 

 

1、 1,  3日前の神様からの祝福は、あっという間に忘れられる。

 

出エジプト記の152227節の話は、水がないという問題から始まります。

 

この話の直前に何が起こっていたかを知ることは意義があります。

 

前は海、後ろにはエジプト人、万事休す。と思ったとき、モーセが杖を指し伸ばすと海が割れて道ができ、そこをイスラエル人は渡り、彼らが渡り終わった後、迫ってきたエジプトの軍勢は、割れた海が元に戻ってみな海の中の藻屑となりました。神様が不思議な奇跡を起こして彼らを救ってくださったのです。九死に一生を得たイスラエルの人々、彼らは喜び歌い踊ります。

 

でも感情は、長続きしません。

 

3日前の解放は、3日後ののどの渇きを鎮めることはできないのです。

 

3日前の喜びは、その原因となった神様に行きつかないのです

私たちがすべきことは、自分の浅はかさを確認することです。少し昔の祝福の記憶もすぐ忘れられてしまう事を覚えることです。

 

 

 

       2,  やっと見つけた水も、苦くて飲めなかった。

 

イスラエルの民は荒野へ出て行って、3日間歩いたけれど、水が見つかりませんでした。

 

水筒の水も底をついたのでしょう、荒野ですから乾燥しています。のどが渇きます。

 

そしてマラという場所に来たのです。マラというところに、水があったのですが苦くて飲めなかったのです。マラというのは苦いという意味です。

 

彼らは、リーダーだ ったモーセに不平をぶつけます。

 

私たちは何を飲んだらいいのか。

 

 

問題は、水がないことではありませんでした。水はあっても苦いということでした。

 

私たちも同じような問題をもっているのではないでしょうか。

 

生きるのに必要な水がないことが問題なのではありません。水はあるけれど飲めないほど苦いのです。

 

 

生きるのに必要なものがないのではありません、苦いことが問題なのです。

 

私たちには身体が与えられています。肺があり、心臓があり生きるのに必要なものが備わっています。心があり、感情が備わっています。でもそれが苦くなることがあるのではないでしょうか。苦いことが生きるのをつらくしているのではないでしょうか。

 

自分の心に苦みがあるでしょうか。人との間に苦みがあるでしょうか。

 

平安がないというのは裏返して言えば、苦みがあるという事かもしれません。

 

苦みというのは何でしょう。とげとげしくなることです。波風が立つことです。

 

いろいろな出来事を経験する中で、不安になって心に波風が立つことです。そして冷静な判断ができなくなります。神との間に壁ができてしまうのです。

 

私たちはすぐにマラ、苦い場所に戻ってしまうのです。

 

 

 

ヘブライ人への手紙にこんな言葉があります。

 

「だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。」ヘブル 12:15

 

 

 

私たち罪あるものには、苦い根が生えてくる性質があるのです。

 

苦い根が生えてこないように、気をつけなさいと言われています。自分の苦い根に敏感になることが大切です。

 

 

 

3、25 節 モーセが【主】に叫ぶ、

 

対策は、主に叫ぶことです。

 

モーセはこの不平に対し、自分の事として対応するのではなく、神に叫ぶという形で対応しました。問題が起きた時、自分で何とかしようとするより、まずは神に叫ぶ、これを習慣にしましょう。これは決して弱いからではありません。私たちはそのように作られているのです。私たちの毎日には神が必要です。神がいなければ私たちは時間とともに干からびていくするめのようなものです。時間とともに滅びていく物体に過ぎないのです。

 

 

 

心が苦くならないように気を付けましょう。

 

そしてそれに気づいたら、神に叫びましょう。それを怠ってはいけません。

 

神は必ず答えてくださいます。

 

 

 

荒野を歩む        申命記8:2       3-8-2020

 

 

レントは40日、この期間をどう過ごすか

 

先週は灰の水曜日の話をしました。

 

悔い改めというのは、もっと神中心にするということでした

 

そのために祈り、断食、奉仕を強化しましょう。と話しました。

 

 

 

イエスは洗礼を受けたあと、聖霊に導かれて荒野へ退かれ、40日を過ごされました。

 

イエスの宣教の言葉、「悔い改めなさい、神の国が近づいたから」というのは、荒野を体験されて、出てきたものなのです。

 

イエスの先駆者、洗礼者ヨハネも民衆の前に出てくるまで、荒野で過ごしていた。

 

 

 

モーセはイスラエルの民に神からの十戒を受けるためにシナイ山に上って40日過ごした。

 

シナイ山というのもある意味荒野と言えます。

 

 

 

イエスの荒野の40日というと、悪魔の誘惑を思い出すが、

 

荒野での経験というのは、悪魔の誘惑だけに尽きるのではありません。

 

荒野、そこは何もないところである。

 

水とか食べ物にしても簡単に見つからない。

 

毎日どのように生きるかが問われるところである。

 

イスラエルの40

 

イスラエルの民は、エジプトという慣れ親しんだ文化から脱出して自由になったが、脱出した先は荒野だった。約束の土地に行くまでに40年間かかった。その40年間の放浪の彼らの生活を記録しているのが、民数記。「民数記」(Numbers)ヘブル語聖書のタイトルは「荒野で」となります。彼らが荒野をさまよった記録です。

 

神の言葉に接していたイスラエルの民でさえ40年、40日ではなく、荒野をさまよいました。奴隷の身から解放されてエジプトを出た後、約束の地にたどり着くまで40年間かかったんです。

 

この時間は無駄だったんでしょうか。

 

 

 

荒野経験の目的

 

なぜ神様は私たちに荒野の経験をさせるのでしょう。

申命記に、荒野経験の目的が挙げられています。

 

 

あなたの神、【主】がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。「申命記 8:2」 

 

 

 

1)神の命令を守るかどうかを知るため

荒野には何もありません。

外面だけ神に頼っているようにふるまっているが、実は他のことをするということができません。何もないのですから、ことは単純なのです。

神に従うか、自分で何かしようとするか。

 

 

 

2)自分の心の内にあるものを知るため

 

  荒野には何もありません。だから、私たちは自分の心にある風景を外に反映します。私たちの心はっても創造的です。なければそれを作り出すのです。

 

精神病になると、心の中の苦痛が外に出てきます、声が聞こえてきます。それを患者は幻覚としてみたり、幻聴として聞いたりするのです。

 

荒野の中で、食べ物が欲しい欲しいと思っていると、何でも食べ物に見えてくるのです。

 

石ころをパンに変えたらどうだという悪魔の誘惑もそこをついたものだったのです。

 

自分の心にあるものが出てくるのです。

 

だから、私たちの心の内に何があるかがわかるのです。

 

 

 

 

 

荒野で神のしてくださること

 

荒野は恐ろしいところです。でも神がいるならその恐怖は喜びに代わるのです。神は何をしてくださるのかを見てみましょう。

 

 

 

申命記129-31

 

1:29 それで私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。

 

1:30 あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、【主】があなたがたのために戦われる。エジプトで、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったのと同じように。

 

1:31 また荒野では、この場所に来るまでの全道中、あなたの神、【主】が、人が自分の子を抱くようにあなたを抱いてくださったのを、あなたがたは見ているのだ。

 

 

 

1) 神が先を歩いてくださる。

 

エジプトを出たイスラエルの民はどこへ行くべきかを知りませんでした。

 

彼らを引っ張って行ったのは誰だったでしょう。神様です。神が先に立って率いてくださったのです。神について行っていますか。自分

 

 

 

2) 神が戦ってくださる

 

そして敵がいたら、神が戦ってくださったのです。

 

自分で戦おうとしていませんか

 

神に戦っていただいていますか

 

 

 

3)荒野では人を守ってくださる

 

31節 人が自分の子を抱くように、抱いてくださったと書いてあります。

 

 

 

 4)荒野で人を養う

黙示録12:13

 

 竜は、自分が地へ投げ落とされたのを知ると、男の子を産んだ女を追いかけた。

 

12:14 しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われるためであった。

 

逆説的なようですが、荒野は、人を養ってくれます。何もないところですが、何もないからこそ、神によって人は養われるのです。荒野では神の恵みに頼るしかありません。

 

映画館もありません。スポーツジムもありません、ショッピングモールもありません。レストランもありません。神の恵みに頼るしかないのです。

 

黙示録12:6 女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。

 

 

 

荒野を歩む祝福

 

荒野を歩むことによって、私たちは宝物を見つけることができます。

 

それは神がともにおられるという事を経験するという事です。

 

 

 

モーセは、この荒野の経験について驚くべきことを語っています。

 

「あなたの神、主は、この40年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」(2:7)

 

 

 

「この40年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」(8:4)

 

 

 

このようなことが可能なのは、ただ主が共におられ、その主に私たちが頼ってきたたことによるしかありえません。

 

 

 

 

 

荒野は荒野です。簡単ではありません

 

荒野で生きるのは大変です

 

でもそこには宝物が隠れているのです。

 

それは生きる神を体験できるということです。

 

神の声を聞けるということです。

 

 

 

平日の夕方、東京の渋谷駅前の交差点 2人の男の人が歩いていました。

 

ひとりが言いました。マツムシの声が聞こえる。え、

 

こんなとこで聞こえるはずないよ。何も聞こえない。

 

でもその男は、路地に入って行くと、そこに捨ててあった空き缶の上にマツムシがいるのを見つけて見せたのです。

 

その男の人は言いました。

 

人は聞きたいものを聞くんだよ。

 

そういって、硬貨をポケットから出して投げましたチャリン、その音を聞いて、周りにいた人たち、

 

10人以上がパッと足を止めて彼らを見たそうです。

 

 

 

私たちは自分の見たいものを見、聞きたいものを聞くようにできているのです

 

神の声を本当に聞きたいでしょうか。であれば、それをいつも気にかけることです。

 

それが自分にとってとても大切であると言い聞かせることです

 

 

 

荒野の歩みを通して、私たちは神の声を聞くように訓練されます。それは具体的には、祈りであり、みことばを聞くことです。

 

 

このレントの期間、約束の地を仰ぎみつつ、毎日荒野を歩む自分を意識して、

いつもより神様の声に耳を傾けてすごしてみませんか。

 

神様の思い              2 Peter 3:9                            2/23/20                                                                                

 

旧約聖書の創世記に、メトセラという男が出てきます。彼の父はエノク。

 

エノクはメトセラが生まれてから300年神とともに歩んだと書かれています。

 

メトセラはそんな父を見て育ちました。

 

メトセラという名前は、死んだ後に裁きが来るという意味であろうとされている。

 

自分の名前が、メトセラだったら、私だったらどう生きるか、そんなことを考えた。

 

神の思いを知りたい。そう思いました。

 

神の思い、神の思いを知るために聖書にはいくつも神の言葉が記されているので、それを見てみましょう。

 

1) 満足されていた。

 創世記131節、「神はご自分が創ったすべてのものを見られた。それは非常に良かった。」神は創造について満足されていたのです。

  

神様は天と地を造られ、そこに命を作り出されました。植物を動物を、そして男と女を造られたのです。そして創造の6日目、創造を終わって神様は何と言われたでしょう。

  

2) 後悔される

 Gen 6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。

 6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

 

 3)忍耐された。

        神様は、彼が死んだ後に裁きを行うという名前をつけて、メトセラを地上の命を与えたのですが、メトセラを969年まで生きさせました。

 この長寿は何を語るのでしょう。

   何とかその間に人々が神の前に悔い改めるようにと

 神は忍耐深く、人々が悔い改めることを待ってくださったのです。

 神は辛抱強く待ってくださるのです。

  

       4)滅ぼす決断をする

 Gen 6:13 神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。

 暴虐という言葉には、間違いという意味もあります。

 地上が間違いだらけになっていると神は嘆いておられたのです。

  

滅ぼすという決断をした神様、

忍耐に忍耐を重ねたにもかかわらず失望する状況の中で、

ノアだけが神とともに歩んでいたのです

ノアという名前の意味は「慰め」です。

ノアは神様にとっての慰めでした。だからこそ神様も滅ぼすという決断をされたのかもしれません。

 

5)人類をあわれむ

大洪水が去った後、ノアは再び大地に足をつけます。

最初にノアがしたことは、神への捧げものでした。

Gen 8:20 ノアは【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた

 

神から憐みを受けたら、まず神様に捧げものをする姿勢、私たちはこれをわすれてはなりません。

そしてその捧げものの香りを嗅いだ神の決意を聞いてください。

 

Gen 8:21 【主】は、その芳ばしい香りをかがれた。そして、心の中で【主】はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。

 

人の心が思い測ることは幼い時から悪だ、と神様は見切っているのです。

神の前に私たちが悪でしかないことを見切っていらっしゃいます。それにもかかわらず、もう大洪水を越すことはしまいと決意をされたのです。

ここに神の憐れみ、愛を見ないで何が見えるでしょうか。

 

6)、御子を与える決断をされた

   そんな神様は、人類に、救いを与える方を新たに送る決断をされたのです。

John 3:16  神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

ルカの福音書3章にもイエスの系譜が書かれています。それはイエスからさかのぼっていく系譜です。イエスが何のために人間としてこの地上に来られたのかを意図を手繰るように続いて今るのです。そしてアダムにたどり着くのです。アダムにまで戻っているのです。アダムから始まった罪の系譜を改めて歩きなおす。そういう意図が読み取れるのです。

 

7)そして今、また 忍耐されて、待っていらっしゃる

次の個所を読んでみてください。

 

2ペテロ33-9

 

3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 

私たちはメトセラが生まれた時に預言されていて実現したことを見ました。まさにメトセラが死んだときに、洪水が起きたことを見ました。

ノアの洪水が預言されていて、実現したとすれば、火の裁きが必ず来ることも確かなことではないでしょうか。

 

神様はそのうえで待っておられるのです。

9節がカギの聖句になります

 

望んでおられるというのは、 ただの願望ではない。意図をもって決意をもって願う事です。

 

神様の決意を感じられるでしょうか。

すべての人々が悔い改めることを願って、待っていらっしゃるのです。

こういう神の決意を受け止めましょう。

神様の思いを見つめましょう。歴史の最初から、神様は人間に対して思いを持ってこられました。憐みを注いで来られました。

毎朝、私たちは愛に満ちた思いを持った神様から、新しい憐みを受けています。

神の思いをもっと知りましょう。

神の思いを知るには、神に近づかなくてはなりません。

神に近づくことによって、私たちは神の思いをもっと知ることができます。

 

私たちがどのくらい神様の思いを知ることができるかは、私たちがどのくらい神様の近くに行くかにかかっています。

私たちの生活における神様の影響は、私たちがどのくらい神様と近くで過ごすかにかかってくるのです。

神の思いを自分のものとさせていただくよう神様に近づきましょう。

 

今週の水曜日、2/26は灰の水曜日と言います。この日から受難節が始まります。受難節はイースターまでの46日間続きます。日曜日は主を祝う日ですから、それ以外の40日、主の受難と復活に備えるのです。

40日というのは、試練の時であり、新しい時代が始まる時に40日の試練が訪れていました。

ノアの時代の大洪水は40日雨が降り続いたと書かれています。これによって当時の人類は一掃されて新しい人類が新たに歩み始めたのです。

 

エジプトという文化の中で奴隷として生きていたイスラエルの民は、モーセに率いられてそこを脱出し、新しい生き方を神様から教えられます。それが十戒であり、律法です。モーセはその十戒を受け取るために40日間シナイ山にこもりました。

 

イエスキリストは、聖霊によって祝福を受けた後、荒野で40日間悪魔の誘惑を受けられました。新しい生き方、イエスを信じる神の国に生きる生き方を実践するためにこの誘惑を経験されたのです。

 

 これからの時間、私たちにとっても新しい生き方をしていくための備えの時間になるでしょう。

この期間、神様の思いをもっと思るために、神に近づいて過ごしたいものです。

 

ヨハネの福音書8章31-32節にこんな言葉があります。

 

「8:31 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
 8:32 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

 

私たちは、自分で思っているほど、自由ではないようです。もちろん、経済的な制約、社会的な制約、身体的な制約、さまざまな制約の中で私たちは毎日を送っています。でもそういうことがなかったとしても、私たちは自由とは限らないのです。

 私たちは、自分の好きなことをしたり、気分の通りにふるまえたら、自由だと思いがちです。でもそれは自由ではないのです。自分の感情の奴隷になっていると言い換えることもできるからです。私たちが感情の通りに行動したらいいことが起こるでしょうか。私たちはちょっとしたことで、かっとして、いらないことを言って人を傷づけてしまいます。それは私たちが感情の奴隷になってしまうからです。こう考えてくると、自由というのは、かなり難しいものだということが分かってきます。

 

しかしながら、イエスは、イエスキリストを信じる者に、本当の意味での自由を与えてくださると言っておられます。それはそのような外的な条件、心の状態によって縛られないということです。

 

体が不自由だって自由、経済的に不自由だって自由、過去にまずいことをして、落ち込んでいるけれど、自由、、、そんな自由があるのです。

 

そしてそれはイエス・キリストの恵みを受け取るものに与えられるのです。つらいといって、握りしめているこぶしを開いて、イエス様からそれを受け取るか受け取らないかは私たちの選択です。

 

「私の言葉にとどまるなら、真理を知り、真理はあなた方に自由を得させるであろう」、この言葉を大切にしていきたいと思っています

 

みなしごの父、 

 

やもめのためのさばき人は

聖なる住まいにおられる神!

神は孤独なものを家に住まわせ、

捕らわれ人を歓喜の歌声とともに

導き出される。

しかし頑迷なものは焦げつく地に住む。(詩編68:5-6)

父なる神を改めて思います。

どんな人にも父なる神の目が注がれています。

頑迷であってはいけません。

 

聖書には神についてこんなことも書かれています。

 

「あなたのような神がほかにあるでしょうか。あなたは咎を赦し

ご自分のものである残りのもののために背きの罪を見過ごされ

怒りをいつまでも持ち続けず、慈しみを喜ばれるからです。」

 

全知全能偏在の神は、信じるものにとって、決して恐ろしい怖い存在ではないのです。憐んでくださる方なのです。この神が与えてくださる愛を受け取っていいんです。

 

6-9-19のメッセージです。

4/24/2019 イースター礼拝より

1-6-19 イエスの生涯の真ん中にあるもの?

祈り、瞑想について

 キリスト教の中でもカトリックでは、霊操とか瞑想といわれ、今でもその伝統は強く残っていますが、プロテスタントでは、ほとんど注目されません。でも別にプロテスタントでそれを拒否する必要もありません。

別に座禅を組んだりする必要はありません。しずかに、神からの声に耳を傾けるのです。そのとき聖書のことばを思いめぐらすのが普通ですが、ただ神からの声を待つという時も必要です。

聖書の言葉は神によって生み出された言葉だという事を思い出してください。もちろん聖書は翻訳されていますから、人間的な誤りが入る余地もあります。でもそれを考慮に入れても、神の言葉はゆっくり時間をかけて心を傾ける価値があります。

 何か聖書の一節を繰り返し読んで、まずその意味を考え、それをもとに、ここから示されることを考えてみましょう。人間的な知識では到達できなくても、何よりも神様が語ってくださると信じてみてください。時間はかかるかもしれませんが、やってみる価値があります。

 

礼拝から

「励ましの重要性」

聖書の「使徒の働き」にバルナバという男が出てきます。この男はキプロス島出身のレビ人だと書いてあります。使徒たちがエルサレムでイエスキリストにについていくものとして活動を始めたころ、バルナバもこの使徒たちに会い、イエスキリストのことを教えられたのです。そして素直にイエスキリストこそ世の救い主だと信じたのです。

バルナバというのは、実はニックネームでした。本当の名前はヨセフです。なんでそんなニックネームが付いたのか、それはその言葉の意味を考えるとわかります。バルナバというのはバルとナバ、の合成語です。バルというのは、子供という意味、ナバというのは励ましという意味です。つまり「励ましの子」という意味になります。日本の聖書だと新改訳も新共同訳も、「慰めの子」としていますが、励ましの方がしっくりくるんじゃないかと思います。慰めというと、悲しいことがあったときにともにいるという感じですが、励ましというと、前へ前進するのを促すというニュアンスがあります。バルナばのしたことは、前へ進むのを促すものだったからです。

バルナバは、クリスチャンを迫害していたパウロが、180度転換してキリストに従うものになったとき、エルサレムのクリスチャンの使徒たちに紹介したのです。使徒たちは、これは策略ではないのかと恐れたに違いありません。でもそんなことはない、本当に彼はクリスチャンになったんだと彼らを励ましたんです。また今までクリスチャンにしたことはひどかったのに、彼らに受け入れてもらえるだろうかと恐れるパウロにも、大丈夫、と励ましたに違いありません。

 

バルナバは、アンティオケアに初めて異邦人教会ができたのときの、最初の指導者でもあります。

バルナバは今までユダヤのことをほとんど知らなかった新しい信者を教え、異邦人のクリスチャンのことを快く思わない人がいたとしても気にするな、主イエスにとどまることが大切なんだと励ましたのです。一番大切なことは主イエスキリストとともにいることなんだと。

彼はこういう励ましの中で新しい時代を作り出していったのです。

 

今こそ、このバルナバの資質が求められる時代ではないでしょうか。

私たちもバルナバから励まされています。困難な状況にいたとしても、主にとどまり続けなさい、誘惑にあったとしても主にとどまり続けない、と。

 

そしてまた、人を励ますことも求められています。

肉親を失って呆然としている人、離婚の中で心がぎすぎすしている人、友達に裏切られて人を信頼できなくなっている人、病気の家族の看病で希望が見えなくなっている人、まだまだ限りがありません。

私たちに そんな人を一人でも励ますことができたら、神様は喜んでくださるでしょう。

2月14日はバレンタインデーですが、同時に聖灰水曜日でもあります。

この日からレントが始まります。

昨日はマーディグラということで、King Cakeを目にされた方もおられると思います。このKing Cakeは1月6日の公現祭(エピファニー)で博士たちがイエス様を拝んだことからきているのです.だからケーキの中に赤ちゃんが入っていたりするんです。このお祝いがおわると、イエス様の復活(イースター)にむけてのレントの期間に入ります。

今年は、イエス様の受難を覚える聖杯水曜日とバレンタインデーが重なりましたので、本当の愛、人の愛、神の愛について考える良い機会だと思います。

皆さん良い時をお過ごしください。

「星に勇気をもらって」

イエスキリストが生まれ、クリスマスを祝いました。このクリスマスの期間は通常12日間、今年は1月の7日まででした。

1月7日は、東方の博士たちが、偉大なる王が生まれたという星のしるしを見てイスラエルに来ることを祝います。彼らは星に勇気をもらって一歩を踏み出したのです。

 イエスキリストは、決して、イスラエルの人だけの神様ではない、地上のすべての人々の神様です。それをこの博士たちは最初に証言したのです。

 でもそれは、この博士たちが一歩踏み出して、わざわざイスラエルまで訪問したからこそ起きたことです。これはものすごいことです。

彼らがどこから来たのかについては諸説ありますが、イラクだとかイランだという可能性が高いです。だとすれば、もう何週間もかけないと来られない距離です。

それだけの時間とお金をかけて、幼子のイエスキリストを礼拝する。

おそらく1歳の幼子ですから、言葉も十分にしゃべれなかったでしょう。でもイエスキリストは何歳であってもイエスキリストです。人であり、神であられるお方なのです。私たちが礼拝せざるを得ないお方なのです。

だから、神様を礼拝するという事に価値を認め、自分の日常の生活から離れて、一歩踏み出したのです。 

私たちに命を与えられ、維持されているこの神様を知るために、もう一歩踏み込む必要があるのではないでしょうか。(マタイ2:1-12)そしてそのもう一歩とは何なのか、神様に聞いてみましょう。

 

 

シメオンという男が、ヨセフとマリアに出会いました。

これがイエスの誕生後40日後のことです。 ルカ2章21-35

シメオンという言葉は旧約聖書から数多くつかわれてきた名前です。意味は、「神は聞かれた」。

神は聞かれるだけでなく、答えてくださいます。

私たちの呻きを聞かれるだけでなく答えてくださるのです。

ヨセフとマリアにあったシメオンは、二人の抱えていたイエスという赤ん坊を抱きかかえたとき、長い長い間、待ち望んでいた神様の答えを聞くのです。

その時の反応が、シメオンの賛歌として知られる詩になってます。Luke: 29-31

ラテン語の出だしをとって、ヌンク・ディミティスと言われていますが、

今こそ私を去らせてくださいます。仕事から解放してくださいます。そういう意味です。

神様はシメオンの長い間の、救いを求める声に、答えてくださったのです。

とうとう神様は救いをこの地上に贈ってくださったのです。

それがイエスキリスト。

赤ん坊のイエスキリストを腕にかかえ、

シメオンの感慨はいかばかりであったことでしょう。

実際にイエスが救いのみ業を行うのは30年ほども先の事ですが、

シメオンは将来を確信して安心したのです。

2018年、私たちも将来を確信して安心できるのです。

神様は聞いてくださいます。そして救いがもう与えられているのです。

私たちの腕にはイエス様がいらっしゃるのです。

私たちの腕にイエス様がいらっしゃる。このことに思いをはせてみてください。

神様の恵みはもう私たちに与えられているんです。(ルカ2:21-35)

12/24/17の礼拝でご紹介したウエールズの詩人にして牧師だったGeorge Herbert. 1593–1632の詩を紹介します。彼は39歳で天に召されました。

私訳のあとにオリジナルを付けます。

愛と名付けられているのは神様です。神様がどのような方であるのか、瞑想の助けになると思います。

 

Love (III)

 

愛が私を招いたのに 私は後ずさった。         

ちりと罪にまみれていたから。

 

でも、めざとい愛は私が引き下がったのを見て   

私が入ってきたところから さらにわたしに近づいて                                       「何か足りないものがありますか」とやさしく尋ねた。

 

「ここにいるのにふさわしいお客様がいらっしゃいません」と私は答えた。

 

「それはあなたです」愛は言った。     

 

「私ですか、不親切で感謝もできないのに、                                           
 
私はあなたを見ることすらできません」

 

 愛は私の手を取って、                        

 

         ほほ笑んだ。
私以外の誰がその目を造りましたか」

 

「それはおおせのとおりです。主よ    

 

でも私はそれらを汚してしまいました。

 

わたしの恥にふさわしいところに行かせてください」                            

 

「あなたは知らないのですか」愛は言われた。                                        
「だれがその咎を負ったのかを。」     

 

「ああ、そうです。では、あなたにお仕えいたします。」                                  

 

「座りなさい」と愛は言った          

 

「私の食事を食べなさい」            

 私は座り、食事をとった。

 

 

Love (III)

 

Love bade me welcome: yet my soul drew back,
        Guilty of dust and sin.
But quick-ey’d Love, observing me grow slack
        From my first entrance in,
Drew nearer to me, sweetly questioning
        If I lack’d anything.

 

A guest, I answer’d, worthy to be here:
        Love said, You shall be he.
I the unkind, ungrateful? Ah, my dear,
        I cannot look on thee.
Love took my hand, and smiling did reply,
        Who made the eyes but I?

 

Truth, Lord, but I have marr’d them: let my shame
        Go where it doth deserve.
And know you not, says Love, who bore the blame?
        My dear, then I will serve.
You must sit down, says Love, and taste my meat:
        So I did sit and eat.

 

 

2016年8月28日の礼拝

タイトル「浸かる」マタイの福音書28章19-20節より

「父、子、聖霊のみなによって、洗礼を授け、、、」

有名なイエス様の送る言葉です。

この言葉、洗礼をするときに、牧師が語る箇所ですが、ものすごい祝福が含まれているのに気づいていますか?

WORSHIP ON Aug. 28.

The title is "dipped". from Matthew Chap 28 ver 19 and 20.

It is a tremendous blessing Jesus talked about!

Thank God!!!

8月21日「開く」

8月14日「つなぐ」

6月12日は、「赦される」というタイトルのメッセージでした。

私たちはもう神様に赦されているということ、知っていますか?

でもそれを受け取らないと効き目はでてきません。

神の赦しをどうやって受け取るか。考えてみましょう。

 

6月5日の礼拝は、1 John 4:11から、「愛の債務」というタイトルで、メッセージをさせていただきました。愛の債務という言葉から、皆さまはどんなことを想像されますか?

私たちは神様に愛の債務があるんです。

 

5月8日の礼拝は、イザヤ書46章3-4節から、「私が背負う」というタイトルでメッセージをお分かちいたしました。

「あなたが白髪になっても、私は背負う」と言ってくださるのが私たちの神様です。

私たちは神様のお荷物になっているのですが、神様はそんな荷物を捨てることはなさいません。むしろ、「あなたは私のもの、あなたを愛している、私の目に、あなたは高価で尊い」と言ってくださるのです。

 

こんな神様をもっていること、素晴らしいです。

改めて感謝をささげるとともに、さらにゆだねてまいりましょう。

 

"Praying hands" by Albrechet Durer

 

旧約聖書 土師記8章

ギデオンの300人の軍隊は奇跡を経験します。そして彼らの友のイスラエルの部族はギデオンの軍隊を助けるよう要請されます。

しかしエフライムや、ガド(スコテやペヌエル)の友は、言ってみれば親戚であるにもかかわらず、心よくギデオン軍を助けませんでした。

なぜなら彼らは、プライドや恐れに支配されていたからです。神の祝福が与えられているのを知りながら、神に頼るよりも自分の心にしたがってしまったのです。

私たちも神様からの祝福を受けながら、自分のプライドや恐れのために主にある友に冷たく接してしまうことがあります。

 

そんなとき、私たちを友と呼んでくださるイエス様を思い出しましょう。イエス様は、羊のために命を捨てる羊飼いでおられます。

 

アルブレヒト・デューラーの「祈りの手」という絵があります。絵描き

になりたいという同じ夢を持っていたアルブレヒト・デューラーとその友は、貧困のため、炭鉱で働かざるを得ませんでした。しかしそれは重労働で、絵描きになる勉強ができずに毎日を過ごさざるを得ませんでした。ある時その友はデューラーに提案したのです。4年間僕が働くから、その間君は絵の勉強に専念してくれ、そのあと君が4年働いて僕に絵の勉強に専念させてくれ。4年たって、アルブレヒト・デューラーの絵は売れるようになりました。でもいざその友の番になったとき、その友は炭鉱の仕事で指を痛めてしまい、絵描きになる夢を捨てざるを得なませんでした。しかしその友は、それでも、デューラーが絵描きとして成功したことを喜び、そのことのためにデューラーが苦しまないように祈るのです。

 

その祈りを知ったデューラーが描いた絵が、「祈りの手」です、彼らはどちらもクリスト者として、キリストに倣った生き方をしました。

 

私たちには真の友、キリストがいるのです。

キリストに倣って生きることを願いましょう。

詩篇を思う

詩篇 1篇

「いかに幸いなことか

 神に逆らうものの計らいにしたがって歩まず、

 罪あるものの道にとどまらず、

 傲慢なものとともに座らず。

 主の教えを愛し、

 その教えを昼も夜も口ずさむ人」 (詩篇1:1-2)

 

150ある詩篇の冒頭の詩の出だしです。

日本の聖書にはいくつか翻訳があります。私はずっと新改訳に慣れていましたが、場所によってすっきりとしないところがあります。この箇所も新改訳だと、「悪者」としています。NIV, NASBでもthe wicked となっており、それを踏襲しているのだと思いますが、ちょっと違う感じがしませんか。新共同訳だと上記のように訳されていて、気に入っています。ヘブライ語はrashaと言う言葉が使われています。悪者と言う意味もありますが、神に逆らうという意味もあります。

 

 「主の教えを心から愛し、昼も夜も口ずさむ」

そんな毎日を送るためには意図的な訓練が必要です。

まず少しずつ暗唱する事から始めませんか。

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