最近のメッセージから

6-9-19のメッセージです。

4/24/2019 イースター礼拝より

1-6-19 イエスの生涯の真ん中にあるもの?

祈り、瞑想について

 キリスト教の中でもカトリックでは、霊操とか瞑想といわれ、今でもその伝統は強く残っていますが、プロテスタントでは、ほとんど注目されません。でも別にプロテスタントでそれを拒否する必要もありません。

別に座禅を組んだりする必要はありません。しずかに、神からの声に耳を傾けるのです。そのとき聖書のことばを思いめぐらすのが普通ですが、ただ神からの声を待つという時も必要です。

聖書の言葉は神によって生み出された言葉だという事を思い出してください。もちろん聖書は翻訳されていますから、人間的な誤りが入る余地もあります。でもそれを考慮に入れても、神の言葉はゆっくり時間をかけて心を傾ける価値があります。

 何か聖書の一節を繰り返し読んで、まずその意味を考え、それをもとに、ここから示されることを考えてみましょう。人間的な知識では到達できなくても、何よりも神様が語ってくださると信じてみてください。時間はかかるかもしれませんが、やってみる価値があります。

 

礼拝から

「励ましの重要性」

聖書の「使徒の働き」にバルナバという男が出てきます。この男はキプロス島出身のレビ人だと書いてあります。使徒たちがエルサレムでイエスキリストにについていくものとして活動を始めたころ、バルナバもこの使徒たちに会い、イエスキリストのことを教えられたのです。そして素直にイエスキリストこそ世の救い主だと信じたのです。

バルナバというのは、実はニックネームでした。本当の名前はヨセフです。なんでそんなニックネームが付いたのか、それはその言葉の意味を考えるとわかります。バルナバというのはバルとナバ、の合成語です。バルというのは、子供という意味、ナバというのは励ましという意味です。つまり「励ましの子」という意味になります。日本の聖書だと新改訳も新共同訳も、「慰めの子」としていますが、励ましの方がしっくりくるんじゃないかと思います。慰めというと、悲しいことがあったときにともにいるという感じですが、励ましというと、前へ前進するのを促すというニュアンスがあります。バルナばのしたことは、前へ進むのを促すものだったからです。

バルナバは、クリスチャンを迫害していたパウロが、180度転換してキリストに従うものになったとき、エルサレムのクリスチャンの使徒たちに紹介したのです。使徒たちは、これは策略ではないのかと恐れたに違いありません。でもそんなことはない、本当に彼はクリスチャンになったんだと彼らを励ましたんです。また今までクリスチャンにしたことはひどかったのに、彼らに受け入れてもらえるだろうかと恐れるパウロにも、大丈夫、と励ましたに違いありません。

 

バルナバは、アンティオケアに初めて異邦人教会ができたのときの、最初の指導者でもあります。

バルナバは今までユダヤのことをほとんど知らなかった新しい信者を教え、異邦人のクリスチャンのことを快く思わない人がいたとしても気にするな、主イエスにとどまることが大切なんだと励ましたのです。一番大切なことは主イエスキリストとともにいることなんだと。

彼はこういう励ましの中で新しい時代を作り出していったのです。

 

今こそ、このバルナバの資質が求められる時代ではないでしょうか。

私たちもバルナバから励まされています。困難な状況にいたとしても、主にとどまり続けなさい、誘惑にあったとしても主にとどまり続けない、と。

 

そしてまた、人を励ますことも求められています。

肉親を失って呆然としている人、離婚の中で心がぎすぎすしている人、友達に裏切られて人を信頼できなくなっている人、病気の家族の看病で希望が見えなくなっている人、まだまだ限りがありません。

私たちに そんな人を一人でも励ますことができたら、神様は喜んでくださるでしょう。

2月14日はバレンタインデーですが、同時に聖灰水曜日でもあります。

この日からレントが始まります。

昨日はマーディグラということで、King Cakeを目にされた方もおられると思います。このKing Cakeは1月6日の公現祭(エピファニー)で博士たちがイエス様を拝んだことからきているのです.だからケーキの中に赤ちゃんが入っていたりするんです。このお祝いがおわると、イエス様の復活(イースター)にむけてのレントの期間に入ります。

今年は、イエス様の受難を覚える聖杯水曜日とバレンタインデーが重なりましたので、本当の愛、人の愛、神の愛について考える良い機会だと思います。

皆さん良い時をお過ごしください。

「星に勇気をもらって」

イエスキリストが生まれ、クリスマスを祝いました。このクリスマスの期間は通常12日間、今年は1月の7日まででした。

1月7日は、東方の博士たちが、偉大なる王が生まれたという星のしるしを見てイスラエルに来ることを祝います。彼らは星に勇気をもらって一歩を踏み出したのです。

 イエスキリストは、決して、イスラエルの人だけの神様ではない、地上のすべての人々の神様です。それをこの博士たちは最初に証言したのです。

 でもそれは、この博士たちが一歩踏み出して、わざわざイスラエルまで訪問したからこそ起きたことです。これはものすごいことです。

彼らがどこから来たのかについては諸説ありますが、イラクだとかイランだという可能性が高いです。だとすれば、もう何週間もかけないと来られない距離です。

それだけの時間とお金をかけて、幼子のイエスキリストを礼拝する。

おそらく1歳の幼子ですから、言葉も十分にしゃべれなかったでしょう。でもイエスキリストは何歳であってもイエスキリストです。人であり、神であられるお方なのです。私たちが礼拝せざるを得ないお方なのです。

だから、神様を礼拝するという事に価値を認め、自分の日常の生活から離れて、一歩踏み出したのです。 

私たちに命を与えられ、維持されているこの神様を知るために、もう一歩踏み込む必要があるのではないでしょうか。(マタイ2:1-12)そしてそのもう一歩とは何なのか、神様に聞いてみましょう。

 

 

シメオンという男が、ヨセフとマリアに出会いました。

これがイエスの誕生後40日後のことです。 ルカ2章21-35

シメオンという言葉は旧約聖書から数多くつかわれてきた名前です。意味は、「神は聞かれた」。

神は聞かれるだけでなく、答えてくださいます。

私たちの呻きを聞かれるだけでなく答えてくださるのです。

ヨセフとマリアにあったシメオンは、二人の抱えていたイエスという赤ん坊を抱きかかえたとき、長い長い間、待ち望んでいた神様の答えを聞くのです。

その時の反応が、シメオンの賛歌として知られる詩になってます。Luke: 29-31

ラテン語の出だしをとって、ヌンク・ディミティスと言われていますが、

今こそ私を去らせてくださいます。仕事から解放してくださいます。そういう意味です。

神様はシメオンの長い間の、救いを求める声に、答えてくださったのです。

とうとう神様は救いをこの地上に贈ってくださったのです。

それがイエスキリスト。

赤ん坊のイエスキリストを腕にかかえ、

シメオンの感慨はいかばかりであったことでしょう。

実際にイエスが救いのみ業を行うのは30年ほども先の事ですが、

シメオンは将来を確信して安心したのです。

2018年、私たちも将来を確信して安心できるのです。

神様は聞いてくださいます。そして救いがもう与えられているのです。

私たちの腕にはイエス様がいらっしゃるのです。

私たちの腕にイエス様がいらっしゃる。このことに思いをはせてみてください。

神様の恵みはもう私たちに与えられているんです。(ルカ2:21-35)

12/24/17の礼拝でご紹介したウエールズの詩人にして牧師だったGeorge Herbert. 1593–1632の詩を紹介します。彼は39歳で天に召されました。

私訳のあとにオリジナルを付けます。

愛と名付けられているのは神様です。神様がどのような方であるのか、瞑想の助けになると思います。

 

Love (III)

 

愛が私を招いたのに 私は後ずさった。         

ちりと罪にまみれていたから。

 

でも、めざとい愛は私が引き下がったのを見て   

私が入ってきたところから さらにわたしに近づいて                                       「何か足りないものがありますか」とやさしく尋ねた。

 

「ここにいるのにふさわしいお客様がいらっしゃいません」と私は答えた。

 

「それはあなたです」愛は言った。     

 

「私ですか、不親切で感謝もできないのに、                                           
 
私はあなたを見ることすらできません」

 

 愛は私の手を取って、                        

 

         ほほ笑んだ。
私以外の誰がその目を造りましたか」

 

「それはおおせのとおりです。主よ    

 

でも私はそれらを汚してしまいました。

 

わたしの恥にふさわしいところに行かせてください」                            

 

「あなたは知らないのですか」愛は言われた。                                        
「だれがその咎を負ったのかを。」     

 

「ああ、そうです。では、あなたにお仕えいたします。」                                  

 

「座りなさい」と愛は言った          

 

「私の食事を食べなさい」            

 私は座り、食事をとった。

 

 

Love (III)

 

Love bade me welcome: yet my soul drew back,
        Guilty of dust and sin.
But quick-ey’d Love, observing me grow slack
        From my first entrance in,
Drew nearer to me, sweetly questioning
        If I lack’d anything.

 

A guest, I answer’d, worthy to be here:
        Love said, You shall be he.
I the unkind, ungrateful? Ah, my dear,
        I cannot look on thee.
Love took my hand, and smiling did reply,
        Who made the eyes but I?

 

Truth, Lord, but I have marr’d them: let my shame
        Go where it doth deserve.
And know you not, says Love, who bore the blame?
        My dear, then I will serve.
You must sit down, says Love, and taste my meat:
        So I did sit and eat.

 

 

2016年8月28日の礼拝

タイトル「浸かる」マタイの福音書28章19-20節より

「父、子、聖霊のみなによって、洗礼を授け、、、」

有名なイエス様の送る言葉です。

この言葉、洗礼をするときに、牧師が語る箇所ですが、ものすごい祝福が含まれているのに気づいていますか?

WORSHIP ON Aug. 28.

The title is "dipped". from Matthew Chap 28 ver 19 and 20.

It is a tremendous blessing Jesus talked about!

Thank God!!!

8月21日「開く」

8月14日「つなぐ」

6月12日は、「赦される」というタイトルのメッセージでした。

私たちはもう神様に赦されているということ、知っていますか?

でもそれを受け取らないと効き目はでてきません。

神の赦しをどうやって受け取るか。考えてみましょう。

 

6月5日の礼拝は、1 John 4:11から、「愛の債務」というタイトルで、メッセージをさせていただきました。愛の債務という言葉から、皆さまはどんなことを想像されますか?

私たちは神様に愛の債務があるんです。

 

5月8日の礼拝は、イザヤ書46章3-4節から、「私が背負う」というタイトルでメッセージをお分かちいたしました。

「あなたが白髪になっても、私は背負う」と言ってくださるのが私たちの神様です。

私たちは神様のお荷物になっているのですが、神様はそんな荷物を捨てることはなさいません。むしろ、「あなたは私のもの、あなたを愛している、私の目に、あなたは高価で尊い」と言ってくださるのです。

 

こんな神様をもっていること、素晴らしいです。

改めて感謝をささげるとともに、さらにゆだねてまいりましょう。

 

"Praying hands" by Albrechet Durer

 

旧約聖書 土師記8章

ギデオンの300人の軍隊は奇跡を経験します。そして彼らの友のイスラエルの部族はギデオンの軍隊を助けるよう要請されます。

しかしエフライムや、ガド(スコテやペヌエル)の友は、言ってみれば親戚であるにもかかわらず、心よくギデオン軍を助けませんでした。

なぜなら彼らは、プライドや恐れに支配されていたからです。神の祝福が与えられているのを知りながら、神に頼るよりも自分の心にしたがってしまったのです。

私たちも神様からの祝福を受けながら、自分のプライドや恐れのために主にある友に冷たく接してしまうことがあります。

 

そんなとき、私たちを友と呼んでくださるイエス様を思い出しましょう。イエス様は、羊のために命を捨てる羊飼いでおられます。

 

アルブレヒト・デューラーの「祈りの手」という絵があります。絵描き

になりたいという同じ夢を持っていたアルブレヒト・デューラーとその友は、貧困のため、炭鉱で働かざるを得ませんでした。しかしそれは重労働で、絵描きになる勉強ができずに毎日を過ごさざるを得ませんでした。ある時その友はデューラーに提案したのです。4年間僕が働くから、その間君は絵の勉強に専念してくれ、そのあと君が4年働いて僕に絵の勉強に専念させてくれ。4年たって、アルブレヒト・デューラーの絵は売れるようになりました。でもいざその友の番になったとき、その友は炭鉱の仕事で指を痛めてしまい、絵描きになる夢を捨てざるを得なませんでした。しかしその友は、それでも、デューラーが絵描きとして成功したことを喜び、そのことのためにデューラーが苦しまないように祈るのです。

 

その祈りを知ったデューラーが描いた絵が、「祈りの手」です、彼らはどちらもクリスト者として、キリストに倣った生き方をしました。

 

私たちには真の友、キリストがいるのです。

キリストに倣って生きることを願いましょう。

詩篇を思う

詩篇 1篇

「いかに幸いなことか

 神に逆らうものの計らいにしたがって歩まず、

 罪あるものの道にとどまらず、

 傲慢なものとともに座らず。

 主の教えを愛し、

 その教えを昼も夜も口ずさむ人」 (詩篇1:1-2)

 

150ある詩篇の冒頭の詩の出だしです。

日本の聖書にはいくつか翻訳があります。私はずっと新改訳に慣れていましたが、場所によってすっきりとしないところがあります。この箇所も新改訳だと、「悪者」としています。NIV, NASBでもthe wicked となっており、それを踏襲しているのだと思いますが、ちょっと違う感じがしませんか。新共同訳だと上記のように訳されていて、気に入っています。ヘブライ語はrashaと言う言葉が使われています。悪者と言う意味もありますが、神に逆らうという意味もあります。

 

 「主の教えを心から愛し、昼も夜も口ずさむ」

そんな毎日を送るためには意図的な訓練が必要です。

まず少しずつ暗唱する事から始めませんか。

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